日本岩窟王事件(吉田石松翁事件)


−経緯−
昭和38年2月28日名古屋高裁で、無罪を叫んで50年、吉田石松が無罪を勝ち取った。

大正2年(1913年)8月、名古屋市千種町(現在、千種区)で繭(まゆ)小売商の戸田亀太郎さん(当時31歳)が後頭部を殴られて即死した。犯人は被害者から1円20銭を奪って逃走したが、警察の捜査でガラス工の海田庄太郎(当時22歳)と北河芳平(当時26歳)が容疑者として浮上、警察は2人を殺人容疑で逮捕した。

警察の取調べで海田と北河は自分達の罪を軽くしようと、同じガラス工場の職場仲間である吉田石松(当時34歳)を主犯に仕立て犯行を自供した。その結果、吉田は逮捕されたが、取り調べで犯行は関与していないことを主張した。警察は犯行を否認する吉田に対して連日の拷問で自白を迫ったが、吉田はどんな拷問にも屈せず終始否認した。

一審は海田と北河に無期懲役(確定)、吉田に死刑を言い渡した。大正14年11月、吉田は名古屋控訴院、大審院で無実を訴えたが無期懲役が確定。昭和10年3月の仮釈放までの22年間を服役したが、その間2回の再審請求、5回の大臣請願を行い獄中から無実を訴えた。

吉田は仮釈放後、海田と北河の2人を追い求めた。ようやく2人の所在をつきとめて「吉田に罪をなすりつけました」という詫び状を取った。これを証拠に3回目の再審請求をするが棄却された。

戦後になっても吉田は無実の訴えを続け、天皇直訴を含めて活動を続けた。やがて世論が注目することろとなり、昭和34年10月日本弁護士連合会が特別委員会を設置。衆院法務委員会も人権擁護の観点から動きだして、ついに昭和37年10月に再審開始を取り付けた。

−謝罪した判事−
昭和38年2月28日名古屋高裁・小林裁判長は吉田に無罪を言い渡した。50年ぶりで再審史上初の雪辱がなったと同時に戦前判決の「天皇の名による判決」を取り消した。

裁判長は吉田に対して「被告人、いな、ここでは吉田翁と呼ぼう。我々の先輩が翁に対して犯した誤審をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきたその崇高な態度、その不撓不屈のまさに驚嘆すべきたぐいなき精神力、生命力に深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈る」と読み終えた後、小林裁判長を含め3人の裁判官は立ち上がり、被告席の吉田に向かって頭を下げた。法廷ではきわめて異例であった。無実を勝ち取った瞬間、吉田は「万歳」と法廷で叫んだ。この時、吉田84歳だった。

無実を勝ち取った9ヵ月後の12月1日、身も心も安らかになったのか老衰により永眠。戦前戦後の30年間、支援してきた元新聞記者の青山与平氏は「人権の神ここに眠る」と墓に刻んだという。

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名古屋高裁で無実を勝ち取った吉田翁


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