立大助教授・教え子殺害事件


−経緯−
昭和48年9月6日午後4時頃、静岡県伊豆町の海岸で一家4人とみられる水死体が浜辺に打ち上げられているのを釣り人が発見し警察に届けた。下田署が現場検証した結果、近くの岩場から4人の物と思われる靴、ハンドバック、遺書が見つかった。遺書には「大変ご迷惑ですが、親子4人がこの下の淵で投身自殺しているのでお届けください」と書いてあった。

この遺書から自殺した4人は立教大学助教授の大場啓仁(当時38歳)と妻の順子さん(当時33歳)、長女(当時6歳)、次女(当時4歳)であることが判明。下田署は大場の住所を所轄する東京・目白署に連絡し動機などの調査依頼を行った。

目白署は当初、自殺ということで事務的に処理を済ます対応をしていたが、次第に殺人に絡む事件に発展していった。目白署の捜査官が自殺の動機を調べに立大に出向いて関係者に事情聴取したところ、大場助教授は教え子で大学院生の関京子さん(当時24歳)と深い関係にあり、関係を清算することで悩んでいたこと、その関さんが7月20日から行方不明であることが判明した。

目白署は単なる自殺では無く、殺人事件の可能性があるとして本格的な捜査を開始した。そこで、捜査本部は大場助教授の生前のアリバイを調査した。その結果、7月20日午後から夜にかけてアリバイが無いこと、また同夜は恩師である同大教授所有の八王子市の別荘を借りていたとの情報を得た。

捜査本部は、この別荘で関さんが殺害されたと見て、1万平方メートルもある広大な敷地で遺体捜査を開始した。9月20日になって関さんの物と思われるハイヒールが見つかったが、その後の捜査は進展が無かった。翌年の昭和49年2月28日、ついに関さんが全裸で縛られ絞殺された腐乱死体が発見された。これにより、大場助教授が関さんを殺害し遺体を別荘の敷地に埋めたことが確実となった。

−アリバイ工作−
大場助教授と関さんは不倫関係にあった。当初、大場助教授は関さんに結婚することを約束し関係を持ったが、本音は火遊び程度と思っていたのに対して関さんは妻との離婚、自分への結婚を要求し大場助教授はノイローゼ状態だった。

大場助教授は関さん殺害後、生前に彼女に書かせた手紙を投函したり、彼女が通っていた専門学校に行方捜索で尋ねたり偽装工作をしていた。警察は3月26日、加害者・被害者が死亡した中で大場助教授を被疑者死亡として殺人・死体遺棄容疑で書類送検した。


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