水俣病


−経緯−
昭和31年4月21日原因不明の激しい脳症状を訴える女児(当時5歳)が熊本県水俣市の新日本窒素肥料付属病院で受診し、2日後の23日に入院した。5月1日になって医学博士で同病院の細川院長が、水俣保健所に脳症状を主訴とする原因不明の患者発生報告を行った。この日が「水俣病の公式な確認の日」とされた。

細川院長の報告は、「昭和29年から当地方において散発的に発生した四肢(しし)の頚性失調性マヒや言語障害を主症状とする原因不明の疾患に遭遇した。ところが、本年4月から、同様の患者が多数発見され、特に月の浦、湯堂地区に濃厚に発生し、しかも同一の家族内に数名の患者があることを知った。なお、発生地区の猫は痙攣(後に猫踊りなどと言われた)を起こし多数の猫が死んでいる」というものであった。

8月3日、熊本県は厚生省に原因不明の脳疾患が多発していることを報告し、熊本大学に研究班を組織して原因究明を依頼した。その結果、同一家族内で同様の疾患が多く、その殆どが水俣湾から獲れた魚介類を摂取していることから、魚介類に何らかの原因があるのではないかと推定した。

11月4日になって熊本県は水俣湾で獲れた魚介類は危険であるとして摂取しないよう指導を始めた。

地元の人たちは、前々から新日本窒素(以下、チッソ)水俣工場からのタレ流し廃水が原因であると膚で感じていた。が、当時の水俣市は、チッソで成り立つ町であり、めったなことを口にだすと生きてはいけない(生活が)状況にあった。結局、昭和34年までに75人が発病し29人が死亡した。

昭和34年7月22日、熊本大学医学部の研究班が初めて水俣病の原因が「有機水銀である」と発表。これを裏付けるように厚生省もこの年の11月22日「水俣病の原因はある種の有機水銀化合物である」ことを明らかにした。

水俣病の症状は想像を絶する悲惨なものであった。発病患者は面会に来る家族・知人の識別ができず後ずさりしたり、目や耳も機能せず、言語・知能障害・運動失調で廃人同様の状態にあって無残なものであった。また、水俣病は伝染病だとして偏見を受けたり、発病した家族の就職内定を取り消しされたり不当な差別を受けた。

−50年経っても解決せず−
水俣市の水俣湾では古くから漁業が盛んな漁港の町であったが、それ以降、漁業の操業ができず昭和34年11月2日、ついに漁民の怒りが限界を超えてデモを起こした。その数2000人にのぼる漁民達は、水俣市内をデモ行進したあとチッソ水俣工場へ突入し工場長室、事務所などを襲撃し、警察・工場側合わせて69人の負傷者をだす惨事となった。

同年12月17日、チッソ側と県漁連が調停委員会の調停案受諾書に調印した(補償金3500万円、立ち上り資金融資6500 万円)。

同年12月30日、チッソ側と水俣病患者家族互助会の間で弔慰金・葬祭料・一時金などに関して「見舞金契約書」が取り交わされた(弔慰金葬祭料32万円、年金成年者10万円、未成年者3万円)。だが、賠償に関しては「水俣病患者を認定する基準」で水俣病患者家族互助会とチッソ、国側との間で平行線をたどることになった。

昭和43年9月26日、厚生省は政府統一見解として「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによる中毒性中枢神経系疾患である。原因物質はメチル水銀化合物であり、チッソの工場廃水に含まれて排出され、水俣湾内の魚介類を汚染し、その魚介類を摂取したことで生じたものと認められる」と発表した。

昭和46年に環境庁は「水俣病を否定できない場合は患者として認定する」とした。ところが、昭和52年7月に環境庁(当時、石原慎太郎長官)は「後天性水俣病の判断基準(複数症状の組み合わせを認定条件=シビレや言語障害など2つ以上の症状がある場合に認定する)」を示したため、認定の範囲が極端に狭められてしまった。

平成16年10月15日、最高裁は関西訴訟(熊本県から県外に移った人達の訴訟)上告審判決で国・県の責任を認めた。だが、これに対しても環境庁は昭和52年7月に示した基準を固執して多くの患者の認定を切り捨てている。

米国領への米軍基地移設で7000億円の大判振る舞いや、年金(公的資金)で誰も利用しない保養施設に数百億円かけても平気な顔をしている国、行政。まさに国民の命を守るという最低限のことすらできず、発生から50年を経た今でも解決できない状況にある。


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