和田教授・心臓移植疑惑


−経緯−
昭和43年8月8日午後2時30分、札幌医大付属病院・第二外科の和田寿郎教授(当時46歳)は記者会見で、「日本で初めて、世界で30例目の心臓移植手術」を行ったことを発表した。この中で和田教授は、手術は午前2時に始まり翌日の9日午前5時に終了。術後の経過は順調であると説明した。この発表に日本中は湧き上がった。新聞各紙は『心臓移植ついに踏み切る。涙ぐむ両親、提供者にただ感謝』、『それはまぎれもなく日本医学の黎明を告げた一瞬だった』などと賞賛の嵐であった。

手術を受けたのは宮崎信夫さん(当時18歳)で、5月28日に札幌医大付属病院に入院していた。心臓を提供したのは、手術前日の8月7日、海水浴で溺れた駒沢大学4年生・山口義政さん(当時21歳)であった。

日本初の心臓移植手術は成功したかに見えた。術後、和田教授は宮崎さんがビスケットを食べている写真や宮崎さん自身がお礼のメッセージをテープに吹き込んで記者会見で発表した。しかし、手術から83日目の10月29日、宮崎さんは死亡した。記者会見で和田教授は、「9月末にかかった血清肝炎で体力が弱ったうえ、気管支炎を併発し、たまたま喉にからまったタンが呼吸不全を起こしたため。不運が重なったとしか言いようがない」と発表。つまり心臓移植は成功したが、運の悪い事故で死んだと強調した。

ところが、その後の調査で様々な疑惑が発覚した。宮崎さんも山口さんも死んだのではなく、結果として『殺された』のだと言う議論が現在までも噂として続いている。

−起訴−
宮崎さんの死後から1ヵ月後の12月3日、大阪の漢方医、薬剤師、鍼灸師ら6人が和田教授を「殺人容疑」で大阪地裁に刑事告発した。大阪地裁は翌44年1月20日、札幌地裁へ申送りした。受理した札幌地裁は本格的な調査を開始した。

−山口義政さんのケース−
山口さんは、友人2人と北海道の石狩湾に面した蘭島海岸にキャンプに来ていた。8月7日の午後は帰る予定で、午前中、帰る前にもうひと泳ぎと山口さんだけが海に入っていった。午後12時、深さ2メートルの海底から引き上げられた山口さんは、救護室で医師の懸命な蘇生マッサージを受ける。さらに救急車に搬送され小樽市の野口病院に入院した。

救急車で搬送中に自発呼吸の兆候が見られた山口さんは、野口病院の医師等の懸命な治療が効を奏し生命に関する危険は脱したと見られた。医師の話では、自発呼吸は勿論、血圧が安定し瞳孔の収縮が見られいい方向に向かったと判断したという。ところが、不可思議にも午後7時、院長の判断で野口病院から札幌医科大付属病院へ搬送することとなった。この時の救急隊員の話でも山口は自発呼吸しており血色も良い。この程度で何故、札幌医大へ搬送するのだろうと不思議だったと証言している。

札幌医大に到着すると待っていたのは和田教授だった。ところが溺れた患者に処置する際の基本である、「筋肉を麻痺させて人工呼吸器の管を通す処置」が行われず最後まで麻酔科の医師は呼ばれなかった。実は、この段階で和田教授とスタッフは《心臓移植の準備》を始めていたのだ。
和田教授は山口さんの両親に「懸命な蘇生治療をしたが万策は尽きた。今ここで心臓の提供をお願いしたい」と再三説得した。山口さんの両親は午前1時、心臓提供に同意した。
この時、《山口さんは生きていた》可能性が大きい。が和田教授は移植手術に向けてエスカレートしていく。

−宮崎信夫さんのケース−
宮崎さんは小学校5年の時、リウマチ熱で重い心臓病を患い、中学は1年遅れで卒業した。その後も入退院を繰り返し札幌医大に回されてきた。この時の主治医が第二内科の宮原光夫教授(故人)で、「僧帽弁狭窄兼閉鎖不全症」と診断した。これは心臓に4つある弁のうち、僧帽弁を人口弁に置き換える手術を行えば普通の生活に戻れるというものだった。この手術さえしていれば《今でも生きている》可能性は大だったのである。

−和田教授のケース−
和田教授は米国留学が長く技術は抜群に良かったという。が功名心が強く、一か八かの大胆な手術を行うため死亡率も高かったと言う。心臓移植も日本で2番目では意味が無く「日本初でなくてはならない」。そこで、和田教授は北海道にある多数の病院に「ドナー提供」の依頼をしていた。これに引っかかったのが山口さんだった。和田教授は午前1時頃、ふと宮崎君のことを思い出して「心臓移植」を決めたと記者会見で発表した。

が、これはまったくのでたらめで、これが本当だと心臓移植を決定してから僅か1時間(午前2時)で20人からの大手術の医師団が集まる訳が無い。当然、前段階から準備していた訳である。このような状況で「山口さんの蘇生」に全力を傾けるだろうか。疑問である。

前述の通り、昭和44年1月20日に札幌地検は捜査に乗り出す。その結果、様々な疑惑が浮上してきた。
1.山口さんの死亡時間と何を基準に死亡と判定したのか曖昧。和田教授は午後10時10分に肺性脳死と判定したが、実は脳波、心電図は取っていなかった。後日になってモニターで確認したと訂正するが、これを担当したのはスタッフの門脇医師であったと供述する(門脇医師は手術から5ヶ月後に胃がんで死亡しており、死人に口無しであった)。

2.宮崎さんの心臓が行方不明。ようやく捜しだした心臓は4つある弁が全てくり抜かれていた。弁はそれぞれガーゼにくるまれていて心臓本体と一緒に保管されていたが、そのうちの大動脈弁だけは心臓本体と切り口が合わない。この弁は他人の弁にすり替えられていた。和田教授は「宮崎さんの心臓は最悪の状態で一刻も早い段階で移植しないと危険」と主張していた。よって宮崎さんの心臓を見せる訳にはいかない(注:前述の宮原教授の診断に注目)。そこで隠蔽・偽装したとの嫌疑をかけられた。これに対して、またしても門脇医師が担当したため詳細の経緯はわからないと供述した。

3.和田教授は、そもそも心臓移植を可能とするレベルにあったのか。例えば、和田教授は他人からの臓器移植した場合の拒絶反応の知識が殆ど無かったと言う。当時、拒絶反応を抑える免疫抑制剤「イムラン」の購入方法すら知らなかった。確かに宮崎さんの死亡後、心臓を確認すると明らかに拒絶反応が原因で通常の4倍の1080グラムまで肥大しており縫合分はゴツゴツして黒ずんでいたという。

−証拠不十分−
札幌地検は、様々な疑惑に対して立証しようとしたが手術室という密室の行為、専門知識の壁に突き当たった。昭和45年8月31日、不起訴処分(嫌疑不十分)とした。これ以降、日本では脳死判定の基準・移植手術のルール化を審議していく。が、和田教授の疑惑でこれに続く病院・医師はいなく「移植手術」に関しては世界の医療レベルに40年遅れをとったという。
もし、山口さんが生きている段階で心臓をえぐり取られ、移植手術するほどの疾患ではない宮崎さんに移植したとすれば、これほど恐ろしい事件は他にあるだろうか。和田教授は今でも手術の正当性を主張している。

画像
(心臓移植手術の執刀医・和田教授と宮崎さん)


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