弘前事件


-経緯−
昭和24年8月6日夜、青森県弘前市で松永藤雄・弘前大学医学部教授の妻すず子さんがノドを刃物でつかれ殺害された。事件当日、松永教授は勤務のため不在で妻のすず子さんは幼い子供と就寝中。実母は隣の部屋で就寝していた。犯人は、薄暗い部屋に侵入しすず子さんだけを殺害した。

すず子さんは、近所で評判の美人であった。このため、怨恨か性犯罪癖の者による犯行と思われた。そこで、弘前警察署は教授やすず子さんの人間関係を調べたが夫婦関係は良好で問題は無かった。次に通常であれば、付近で性的犯行歴のある者の割り出しとアリバイ捜査を行うのであるが、何故か警察は、この関係の捜査をしなかった。

現場検証では、すず子さんが殺害された部屋から廊下にかけて血痕が発見された。捜査官は、この血痕を頼りに捜索を始めた。すると血痕は、玄関から道路に出て所々に散見された。やがて一軒の家前にある垣根の葉っぱに付着していた血痕を最後に、その先どこにも血痕は見当たらなかった。

この家に住んでいたのが那須隆(当時25歳)であった。弘前警察署は同月22日、那須を殺人容疑で逮捕した。那須は、容疑を否認して事件当日のアリバイはあると主張したが、肉親(両親)の証言は採用されなかった。

検察は、那須の精神鑑定をした結果、性的サディズムであることが実証されたこと、着ていた海軍払い下げの白開襟シャツにすず子さんの血痕が付着していたことなどを証拠として那須を殺人罪で起訴した。

昭和26年1月12日、一審の弘前地裁は那須に無罪を言い渡した。これに対して検察側は控訴。二審の仙台高裁は一転して、東大法医学の権威である古畑教授が「那須の白開襟シャツに付着していた血痕は98.5%被害者の血痕である」という鑑定結果を重視して那須に懲役15年を言い渡した。

那須は上告したが、昭和28年2月19日最高裁は二審を支持して那須に懲役15年が確定した。那須は、無罪を主張しながら服役。昭和38年1月、13年服役して仮出所した。

−冤罪−
那須の仮出所後、事件は意外な方向へ展開する。真犯人が名乗り出てきたのである。この男は、滝谷福松で彼は「三島事件」の影響を受け、「男としての道」を考え名乗り出る決心をしたという。ちなみに滝谷と那須は幼友達の間柄で家も近所であった。

福松は、美人のすず子さんを強姦しようと侵入。殺害後に死姦しようと思ったが噴き出る血に怖じ気ついて逃走。その逃走経路は那須宅と隣家の間にあった生垣を通って自宅に逃げ帰ったことが判明した。

読売新聞の井上安正記者は、真犯人が名乗り出たことで興味を持ち一、二審の公判記録を詳細に調べると様々な疑問点が浮上してきた。更に真犯人とされる滝谷の「ゴボゴボと音がして血が噴き出した」と涙ながらの告白を聞いて、那須は犯人ではないという確証をもった。以降、井上記者の活動が始まる。

その結果、犯行当時には那須の白開襟シャツには血痕が付着していなかったことが判明。なのに那須の逮捕後になぜ血痕が付着していたのか。結局、捜査当局が那須を犯人とするため那須のシャツに被害者の血痕を人為的に着けたことが疑われた。怠慢というより、これは完全に犯罪である。

昭和51年7月13日、那須の再審が決定。昭和52年2月15日、仙台高裁は那須に無罪を言い渡した。無罪獲得まで実に28年の年月が経過していた。冤罪の場合、「では真犯人は誰だったのか」という疑問符が付くが、この場合真犯人が出てきたため完全な無罪勝利と言える。尚、滝谷は時効が成立しており起訴は無かった。

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仙台高裁で「無罪」となった那須氏(当時53歳)と母親


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