荒川放水路・バラバラ殺人事件


−経緯−

昭和27年5月10日の昼頃、東京都足立区の荒川放水路に胴体だけの男の死体が新聞紙と油紙に包まれて浮いているのを近所の人が発見した。ついで、現場から下流側に死体を運んだと思われる行李が見つかった。さらに5日後の15日、同じ荒川放水路の入江で首が発見された。捜査本部は、この首を元にモンタージュ写真を作成し管内の警察署に配布した。

間もなく、捜査本部に板橋警察署からモンタージュの被害者は行方不明になっている板橋警察署・警邏係の伊藤忠夫巡査(当時27歳)ではないかと連絡が入った。その後、両腕も発見されバラバラ死体は完全に全てが揃った。これによってバラバラ死体の身元は伊藤巡査であることが確認された。

捜査本部は、伊藤巡査の妻で板橋区立志村小学校の教諭である冨美子(当時26歳)に事情聴取する。冨美子は夫の勤務先である板橋警察署に病気とか、その後行方が分からないと連絡していた。

冨美子は、前年の26年6月に大阪から上京。知人の紹介で伊藤巡査と結婚した。このため捜査本部はバラバラにした死体を包んだ新聞紙が「大阪朝日新聞」だったこと、首が発見されたとき義歯の質問で冨美子が「あやふや」な回答をしていることなどから冨美子に厳しい追及をして犯行の自供を得た。

−動機−
冨美子の自供によると、結婚してから伊藤の素性が見えてきた。借金が多いこと、ヤクザと付き合いがあること、女性蔑視が激しく冨美子に殴る、蹴るの暴力行為が度々あったこと。このままでは「一生辛い目にあう」と悲観していた。5月7日、伊藤が酔って夜遅く帰宅。ここで、冨美子が伊藤に注意すると殴る、蹴るの暴行を受けた。この時、冨美子は伊藤を殺すことを決意し深夜、警棒にヒモを巻きつけて伊藤の首を絞殺した。同居していた冨美子の母親は隣の部屋で合掌していたという。

遺体の処理に困った冨美子と母親は女手では無理と判断、包丁・のこぎりなどで伊藤の体をバラバラにして翌日8日に荒川放水路に遺棄したのだった。

昭和27年12月東京地裁は、冨美子に殺人・遺体遺棄及び損壊で懲役12年。母親には死体遺棄・損壊で同4年を言い渡した。親子共に栃木刑務所に服役したが母親は翌年病気で獄死している。


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