埼玉・人違いバラバラ殺人事件


−経緯−

昭和29年11月18日、埼玉県警は古谷栄雄(当時29歳)を殺人及び死体損壊・遺棄の容疑で逮捕した。

古谷は、結婚を誓い合った小山文江(仮名、当時23歳)が約束を反故にしたと逆恨みし、埼玉県内で文江の行方を探し回っていた。同年9月5日午後1時30分頃、東武東上線の「新河岸駅」で下車。この日も文江を捜すため、あても無く付近を徘徊していた。午後9時40分頃、埼玉県入間郡高階村(現、川越市)の暗がりの路上で白いブラウス、黒いスカートと白いズック靴の文江を発見した。古谷は「こんな所に隠れていやがったのか」とあとを追いかけた。やがて漆黒の畑でこの女性の首をタオルで絞殺した。

その後、「男と関係ができないように」と死体をバラバラにして胴体や足は近くの肥溜めに遺棄し、切り取った陰部や乳房などの肉片はあちらこちらに一晩中ばら撒いて廻った。が、古谷自身、殺害した女性が人違いであったことを知ったのは翌日の新聞を見てからだった。古谷に殺害されたのは、地元のA子(当時19歳)で古谷とはまったく面識が無かった。

−猟奇と公判−

古谷は、山梨県塩山市の農家の子として出生。中学校を卒業してから大工仕事、電気会社勤務などを経て父親の農業を手伝っていた。17歳の頃、バス車中でスリを働き執行猶予。その後窃盗で実刑を受けた。

昭和25年頃、古谷は塩山市にできたダンスホールで同じ地元の農家の娘で小山文江と出会った。文江は美人で誰にも優しく接する性格で、古谷にも親切にしていた。いままで女性にもてたことが無かった古谷は、「文江は自分に対して好意を持っている」と勘違いした。

古谷は、両親を説得して文江の両親に結婚を前提にした交際を申し入れた。地元では、定職につかず前科者の古谷に対して白い目で見ていた。文江の両親も「定職がなければ認める訳にはいかない」とやんわり断りを入れている。が、元来古谷は自信過剰の性格で「上京して一旗揚げてくるから待っていてくれ」と半ば了解を得ていたつもりであった。

上京して1年、増えたのは前科(窃盗)ぐらいなもので、再び文江宅に訪れたのは昭和28年7月だった。今度は、文江の両親は「結婚は無理だ」と明確に断り、文江を埼玉県の姉のもとに避難させた。古谷は「文江は俺のことが好きなはずだ」と文江のあとを追って上京した。埼玉県で1年近く映画館で働き暇を見つけては文江を探し歩く日々を続けた。そして、翌年の昭和29年9月5日犯行に至ったのだった。

昭和31年2月21日、浦和地裁は古谷に対して無期懲役を言い渡した。検察側は、刑が軽すぎると判断し控訴した。古谷自身も「愛しているための事件だから俺が悪いんじゃない。死刑でなく無期なのは当たり前で、無期でも重い」と控訴した。

同年8月20日、控訴審最終尋問に「文江」は出廷した。文江は「古谷は勝手に私のことを恋人と思っているだけで、私には関係ない」と証言した。この証言に激怒した古谷は隠し持っていた竹べらで文江に全治二週間の傷害を負わせてしまった。この事態に判事の態度が硬化。10日後の8月30日に無期を破棄して死刑判決を言い渡した。

翌32年7月19日、最高裁は上告を棄却し死刑が確定。昭和34年5月27日、仙台拘置所で死刑執行(享年34歳)。古谷は、収監中も同囚達に文江がいかに素晴らしい女であったかを、とくとくと語って聞かせていたという。


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