熊本・お礼参り殺人事件


−経緯−

昭和60年7月24日午前8時20分頃、熊本県甲佐町の町工場経営・谷ミツ(当時63歳)宅で定時になっても出社しないことを不審に思った従業員2人が谷宅に出向いた。玄関の呼び鈴に応答しないためクーラの室外機を踏み台にして部屋に上がり込むと谷さんと養女の則子さん(当時22歳)が血まみれで死亡しているのを発見した。熊本県警の捜査本部が現場検証したところ、谷さんは41ヶ所、則子さんは35ヶ所、2人合わせて76ヶ所の刺し傷があり、さすがに見慣れている刑事も顔面蒼白だった。

この殺傷の残忍さから怨恨説が浮上。捜査していく過程で「一方的に逆恨み」をしていた熊本県天明町出身の森川哲行(当時55歳)が浮上。犯行から5日後の7月28日、居酒屋で知り合った女性と福岡県と熊本県の県境にある荒尾競馬場に出かけたところを張り込んでいた刑事によって逮捕された。逮捕のきっかけは、2人が乗ったタクシー運転手が不審に思い警察に通報したためだった。

−因縁と執念−

森川哲行は昭和5年4月に熊本県天明町で漁師の森川安雄の三男として出生。森川が二歳の時、父・安雄は些細なことから喧嘩で刺され死亡。母親は哲行とその上の兄・道行(仮名)を残して家を飛び出した。それ以降、父方の叔母である林田やえ・正夫(いずれも仮名)夫婦に身を寄せた。林田夫婦は子供がいなかったため2人は可愛がられて育てられた。兄の道行は問題なく育ったが、弟の哲行は不登校で15歳に傷害罪を初め20歳までに前科7犯になっていた。20歳を過ぎると家を出て全国の飯場と刑務所を行ったり来たりしていた。

その後、森川は熊本に戻り海苔の行商をしていた27歳の頃、ミシン販売の営業マンの仲介で谷妙子さん(当時27歳)と見合い話が進んだ。妙子さんの両親は満州からの引き上げ者で、妙子さんは実母・森野ハツメさんの兄・谷三十郎夫婦に預けられ育った。2人は昭和34年1月に結婚した。結婚当初、森川は海苔の行商をして生計をたてていたが、次第に本性を現す。結婚2年後には、働かず焼酎を朝から飲み妙子さんには殴る蹴るの虐待を行う。長男が誕生した3日後、産後の肥立ちが悪かった妙子さんが自宅で横になっていると泥酔した森川がバケツに入った水を妙子さんめがけてブチまげて「いつまで寝とるとか!」と怒鳴り暴行したという。

このような経緯から昭和37年9月、熊本市内の谷三十郎夫妻宅で森川、妙子さん、谷夫妻と実母のハツメさんとで離婚の話し合いがもたれた。が、森川は「絶対に別れない」と言い残して家を飛び出した。その後、妙子さんとハツメさんは谷宅を後にしてバス停留所に向かった。そこで待ち伏せしていた森川はナイフで2人を刺した。ハツメさんは即死、妙子さんは重傷を負ったが一命は取り留めた。逮捕された森川は同年11月22日、熊本地裁で「無期懲役」を言い渡された。

−復讐ノート−

熊本刑務所に服役した森川は仮出所するまでの14年間、谷一族に対する恨みを増幅していく。「俺が、このような辛い服役をしているのは全て奴等のせいだ」と復讐に燃える14年間だった。森川は大学ノートに出所後、復讐するための殺害順位を書き込んだ。まず、谷夫妻、次に谷三十郎の弟・末則の妻でミツ子、妙子の叔母、育ての親である林田夫妻、実兄の道行、さらには無期懲役刑を言い渡したM裁判官など殺害候補は30人に上った。

昭和51年12月8日仮出所した森川は林田宅に身を寄せた。しかし、定職にはつかず家でゴロゴロしている森川に対して林田やえと口論、騒ぎを聞きつけてやって来た実兄・道行2人を刺身包丁で追い掛け回し再度警察に逮捕され仮出所から1年半で刑務所に逆戻りした。

昭和59年2月1日、二度目の仮出所で妙子さんと結婚した年から実に25年が経過していた。この仮出所では、さすがに林田夫妻は身元引き受け人にはならなかった。このため森川は、保護観察施設に身を寄せて「復讐の計画」を進めていった。

まず、再婚した妙子さんの住所を探り出そうと大胆にも谷三十郎宅に出向き、応対に出た三十郎の妻に「叔母さん、昔撮った妙子の写真を本人に返したいから居場所を教えてくれ」と訪問した。勿論、居場所を教える訳が無く、森川は親戚を転々とし妙子さんの居場所を捜し歩いた。

そこで森川は殺害の順番を変える程度の軽い気持ちで、昭和60年7月24日午前2時頃、谷ミツコ宅に侵入して2人を殺害した。この時、犠牲になった養女の則子さんは、森と全く面識が無かった。逮捕された森川は、まったく反省が無く「殺し足り無い」と嘆いていた。

平成11年9月、森川は死刑執行された。

殺人を犯しても尚、仮出所し二度目の殺人を犯す。「死刑廃止論」の議論があるなかで、本件を見ると果たして死刑廃止だけでは問題が解決しないことを改めて考えさせられる。


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