熊沢天皇・騒動


−経緯−

終戦間もなくの昭和20年11月、連合軍総司令部(GHQ)に「我こそは、南朝の正統・天皇である」という内容の投書があった。投書をしたのは愛知県名古屋市千種区の熊沢寛道(当時56歳)であった。この投書はGHQから米人記者に渡され約1ヵ月間かけて翻訳したところ、内容に信憑性があり真偽を確認するため4人の米人記者が名古屋に出向いた。

記者が空襲で焼け出されバラック住まいだった熊沢に面会したのは12月24日。熊沢へのインタビューは米国のライフ誌の翌21年1月21日号にトップ記事として掲載された。その内容は「56歳の商店主、ヒロヒトの皇位を請求」、「皇位の回復を554年待った!」などであった。

日本の新聞もこれを取り上げ、朝日新聞では昭和21年7月6日に熊沢天皇報道を掲載している。これより少し前、6月28日の衆議院予算総会で、石田一松代議士が「熊沢天皇問題は当然不敬罪にならぬか」と質問したのに対して司法大臣は「調査中」との回答に留まっている。
その後、熊沢天皇のブームは急激に広まり昭和21年4月23日東京の田村町(現在、内幸町)の航空会館で講演会を開催した。この講演は超満員で後援会には商科大学の峯間信吉教授ら著名人が名を連ねた。その後、支部を増やすなど全国的に熊沢天皇の後援会は広がり盛況を見せた。

昭和21年10月22日、昭和天皇は名古屋に行幸した。名古屋市矢口国民学校前にロバの後尾の車に十六弁の菊の紋付羽織を着た熊沢天皇が乗ってやって来た。「対談をしたかった」と語ったが目的を果たせず引き上げた。この時、昭和天皇の侍従は「あれが、熊沢天皇の家です」と指したそうである。昭和天皇が国民を励まそうと全国行幸を始めると国民の熱狂的歓迎に、いつしか熊沢天皇ブームは去り、昭和26年1月に起こした「天皇不適格確認の訴え」が東京地裁で「天皇は裁判権に服しない」として却下。それ以降、熊沢天皇が再起することは無く、昭和41年に熊沢寛道は東京都板橋区でひっそりと息を引き取った。

−熊沢天皇の信憑性−
天皇家の血筋で言えば北朝は持明院統、南朝は大覚寺統の流れを嗣ぐが、前者は後嵯峨天皇(88代)の長子の後深草天皇(89代)、後者は次子の亀山天皇(90代)に始まる。南朝の後醍醐天皇(96代)と昭和天皇(124代)は同じ先祖を持つが厳密には血のつながりはない。明治憲法では長子相続を明確に規定したため、正当性は北朝=持明院統にある。

1457年、北朝は南朝の自天王(1440年〜1457年)を殺害し三種の神器を得る。以降、北朝が天皇を即位する。その後の南朝は定かではない。熊沢寛道の父親で熊沢大然(ひろしか)は明治41年1月2日、名古屋から上京し内大臣に「信雅親王の子孫である」と南朝の末裔であることを訴えた。2ヵ年の調査の後、大然を皇族の一員に加えるとの案も浮上した。が、大然は「皇族に加えられる以上序列第一位」を希望した経緯があった。その後、政府は熊沢家の申し立てに沈黙を保ってきたことから熊沢家が「南朝の子孫である」ことはまったく信憑性の無いこととは言えないようだ。

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熊沢天皇こと熊沢寛道氏


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