安保闘争・女子東大生圧死事件


−経緯−
昭和35年6月15日、新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の反対を叫ぶ全学連、労組など65万人(警視庁発表)が国会を包囲し戦前・戦後最大級のデモを展開した。更に全学連の約8000人が国会構内に突入し警官隊と大規模な衝突がおこった。この時、東京大学・文学部の樺(かんば)美智子さん(当時22歳)が圧死した。

警察とデモ隊の双方に数千人の負傷者を出したものの死者は1人にとどまったのは奇跡と言ってよいほど大規模な衝突であった。が、樺美智子さんの死は世論を動かし、その結果《岸内閣が崩壊》し戦後史の大きな転換期として位置付けられることになった。

−安保闘争とは−
日本は昭和20年8月15日の無条件降伏から米国を中心としたGHQ(連合国総司令部)が日本に進駐。最高司令官のマッカーサ元帥の統治下となった。日本は戦後復興の早期実現と独立国家としての地位獲得のため講和条約の締結を目指す。

昭和26年9月8日米国・サンフランシスコで吉田茂首相全権が米国全権のディーン・アチソンと《講和条約=サンフランシスコ講和条約》を調印し昭和27年4月28日発効とした。同時に日本は「日米安全保障条約(以下、旧安保)」に関しても調印した。

この旧安保の要旨は日本は米国に駐留権を与えるが、駐留軍は日本の安全保障(第三国からの攻撃に対して)が明確になっていない片務的な条約であった。

日本側にとって不公平で不利益な旧安保を是正するため日本政府は米国政府に働きかける。根気強く米国側に説得と根回しを経て昭和35年1月19日岸首相が渡米。そこでようやく日米は合意に達し「新安保条約」に調印した。この新安保によって日本は米国に駐留権を与え米国は日本が第三国から攻撃された場合、日米相互で防衛することを保障するという両方向の条約となった(下図参照)。
(尚、この条約は10年間の期限付きであったが昭和45年の期限切れ以降、自動継続され今日に至っている)。

項目 旧安保 新安保
相互防衛義務 明文規定無し 日本国の施政下にある領域
米国の基地使用目的 1.極東における国際平和と安定の維持
2.内乱鎮圧の援助
3.外国からの武力攻撃に対する日本国の安全のため
1.日本国の安全
2.内乱鎮圧−削除
3.極東における国際平和と安定維持・・・使用することをゆるされる
第三国の基地使用 米国の同意必要 削除
事前協議 なし 駐留米軍の配置・設備の重要な変更などについて
日米経済協力 なし 促進
自衛力の漸増 米国は期待 憲法の範囲内で維持発展
有効期限 無期限 10年
基地利用の細目 行政協定 地位協定(NATOなみに改善)

岸信介首相は帰国後、国会で「新安保条約」承認を6月までに済ませてアイゼンハワー大統領の来日を6月19日と設定した。が、岸の目論見は崩れ国会も世論も大揺れとなる。

この頃、米国の偵察機U2がソ連(現、ロシア)領空内で撃墜され米ソのトップ会談が崩壊。ソ連・中国の共産圏が日本に対して強行姿勢をとり始める。国会も「極東における国際平和・・・」の極東とはどの地域を含むのか、事前協議を義務付けた「重要な変更」とはどの範囲をさすのかなど審議は空中崩壊した。

5月19日審議が進まない中、自民党主流派による強行採決を行う。この強行採決で世論は一気に「反岸」に傾いた。マスコミも「民主主義の崩壊」と連日のトップ記事で論陣を張った。後に岸は強行採決に対して「法的に有効であるが政治的には最悪の選択」であったことを認めている。

この強行採決で一気に表舞台に登場したのが「共産主義者同盟=ブント」であった。ブントは軍事闘争から転換した日共の六全共路線にあきたらず日共から分派した新左翼で急進派の先端に位置した。ブントは東大を中心に全学連を組織し「安保反対」の活動を開始した。このブントの手伝いをしていたのが前述の樺美智子さんであった。

彼らの「安保反対」デモは労組から一般市民まで広がっていく。連日デモが繰り返され参加者が増大していった。しかし、岸の強気姿勢は変わらずで、6月19日のアイゼンハワー大統領の来日をあくまで主張。大統領の安全を確保するため自衛隊出動まで検討していた。が赤城防衛庁長官は自衛隊を出動させれば益々デモはエスカレートし社会全体の崩壊に繋がるとして反対する。次第に岸は孤立していく。最終的な決定打だったのが樺美智子さんの死だった。岸は、これ以上世論を納得させることは無理と判断。参議院での「新安保」自然承認という形での「最悪の法案成立」と引き換えに米国大統領の来日断念と自らの首相辞職を表明。後任の池田勇人に託して舞台から降りたのだった。

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国会周辺のデモ隊 樺美智子さんの追悼デモ


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