松川事件


−経緯−
三鷹事件から1ヶ月後の昭和24年8月17日午前3時9分、福島駅を定刻に発車した上り412号旅客列車が東北本線金谷川−松川間のカーブにさしかかった際、先頭の機関車が脱線転覆し続く数車輌も脱線した。この脱線転覆事故で、機関士ら3人が死亡した。

現場はレールの継目板が外され、枕木の犬釘が抜かれ、長さ25メートル、重さ925キロもある1本のレールは線路から13メートルも離れたところに、何の損傷も無く真っ直ぐに置かれていた。

国警福島県本部捜査課の玉川正警視は朝5時頃、国鉄福島管理部から事件の連絡を受けた。現場に着くと直ちに線路を取り外した工具が現場に落ちてないか部下に指示する。やがて現場付近の田んぼからバールと自在スパナを発見した。

そこで、福島保線区で工具が盗まれた形跡が無いか調査した結果、松川保線区で盗まれたらしいとの情報があった。しかし、スパナにはアルファベットのMが刻印されており国鉄では英字が刻印している工具は採用していなかったため疑問を呈することとなった。

警察は、「国鉄の人員整理に対する労組の計画的犯行」とみて国鉄の労組及び人員整理で解雇された人間を対象に捜査を開始した。9月10日最初に逮捕されたのが、労組幹部でも共産党員でもない、最近人員整理で解雇された赤間勝美(当時19歳)元線路工手であった。赤間は玉川警視の厳しい尋問を連日受けた。

赤間は犯行を否認するが、玉川警視は「同僚の菊地が犯人はお前だと自供したぞ」などと虚偽の情報を赤間に伝えて誘導尋問を行った。裏切られた思いの赤間は激怒し警察が誘導する通りの内容で次々と国鉄、東芝労組の関係者名を挙げていく。こうして9月18日から10月21日にかけて赤間を含め20人が逮捕され「列車転覆致死罪」で起訴された

この逮捕は物的証拠が皆無であった。唯一犯行に使用されたとされるバールとスパナは国鉄が正式に採用している工具では無かった。更に赤間をはじめ多くの逮捕者にアリバイがあるのに家族の証言であるとして採用しなかった。第一審判決は25年12月6日に検察の起訴事実を全面的に認め死刑5人を含めて全員有罪の判決がでた。

その後、下山事件・三鷹事件・松川事件と引き続き起こった事件が、米国の対日占領政策の一貫である「国鉄労働者の削減政策」によるものではと薄々感じていた世論を背景に昭和28年12月22日、第二審で部分的無罪を、昭和38年9月12日に最高裁で「赤間自白」の信憑性が無く実行者とされる被告のアリバイが認められ全員無罪となった。

−謎−
この事件は謎の部分が多い。事件当日は、現場付近にコソ泥事件があったとして警官が付近を張り込んでいたこと(ボルトを抜く作業中、部外者が立ち入らないように見張っていたともとれる)、警察の幹部である玉川警視が予定通りという迅速な現着と物的証拠への執着(まるで、絶対に現場付近に工具があるはずだというような指示)など疑問が多々ある。さらに玉川警視の自宅に事故の第一報を入れたのは警察ではなく国鉄福島管理部からというのも不思議である。

また実際にレールを取り外す時間だが、412号旅客列車は午前3時9分に転覆している。その前に現場を通過するのは159貨物列車で午前2時12分だ。ということは破壊工作時間は40分程度しかないのである。破壊工作の実行犯は赤間を含めて5人とされたが、この短時間では925キロもあるレールを取り外すことは物理的に不可能だ。ところが当日の159貨物列車は運休することが前日の午後決定していた。この運休を事前に知り得るのは国鉄幹部及び米国のGHQのRTO(輸送司令部)だけである。

159貨物列車の運休に伴いボルトを抜く時間は十分にあった。そこで、GHQが左翼系排除(レッドパージ)のため事故を起こし、共産党・労組達に罪を被せて一気に国鉄の人員整理(実際には国鉄からの左翼系職員排除)を推し進める為の犯行ではないかとも言われている。

この事件では唯一目撃者がいた。地元の斉藤金作だ。
斉藤金作は、米兵とみられるグループ12人がボルトを抜いているところを目撃してしまった。斉藤は、そのグループから「口外するな。口外したら軍法会議だ」と脅された。5日後、斉藤の元に男が訪ねて来て福島市にあるCIC(米国防諜部)に出頭するよう告げられた。

斎藤は怖くなり弟が住んでいる横浜に引越したが、昭和25年1月12日に行方不明となり40日後に水死体で発見された。数々の謎が今だに明らかになっていない。真犯人は誰だったのか?事件は謎のまま闇に葬られた。

画像
脱線転覆した機関車


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