東大助教授毒殺事件


−経緯−
昭和25年1月8日午後8時頃、国鉄北陸線の上り列車の車中で、帰省先から上京中の東京大学助教授で東大付属病院小石川分院・口腔外科医長の渡辺巌さん(当時39歳)がウイスキーを飲んだところ突然苦しみだしたため、付き添っていた西輝夫医局員が車掌に連絡した。

この事態で急遽、小松駅の駅長室に渡辺助教授を運び介抱をした。地元の医師が駆けつけて渡辺助教授を診察したが同日午後8時45分に死亡を確認した。西医局員は地元医師にウイスキーの瓶を差し出し、渡辺助教授は一口飲んだところ苦しみ出した経緯を報告した。そこで、地元医師はウイスキーを調べたところ、ひどく濁っていた。このため毒殺の疑いがあるとして警察に通報した。警察は、ウイスキーを金沢医大に送り鑑定を依頼した結果、青酸ソーダが混入されていることが判明した。

このウイスキーは昨年の暮れに病院の出入り業者である「八州化学」の社名で渡辺助教授へ届けられた。終戦から5年を経た当時、ウイスキーは贅沢品。渡辺助教授は長い車中をウイスキーを味わいながら上京することを楽しみにしていた。

−複雑な医学部の人間模様−
渡辺助教授は、いずれは東大総長かと言われていたエリート。このため新聞各社は「東大助教授怪死事件」として大きく報道した。警察も威信をかけて犯人の割り出しに懸命となった。

が、事件は意外に早く解決した。西医局員は、警察の事情聴取で「同助教授と看護婦を巡ってトラブルを起こしていた同僚のH医局員(当時25歳)」の関係を供述した。そこで警察はH医局員の身辺捜査をしたところ、確かに同助教授と看護婦を巡るトラブルがあることを確認した。しかも、このことでH医局員は度々、助教授から叱責されて相当恨んでいたことがわかった。

事件から1週間後の15日、H医局員は犯行を自供した。H医局員は、東大小石川分院歯科医員で父親は渡辺助教授に息子の指導を頼んでいた。このためH医局員は同助教授の門下生として助手をしていた。

前年の昭和24年8月、渡辺助教授は胃潰瘍で入院した際、看護婦のKさんと親密な関係を持った。ところが、KさんはH医局員と以前から関係が続いていた。それを後で知った渡辺助教授が激怒し、H医局員にKさんとの関係を清算し慰謝料として20万円をKさんに払えと迫った。当時、Hさんの給料は5000円、到底払える金額ではない。また、H医局員は渡辺助教授が、このことをH医局員の父親に話すと言われ同助教授に殺意を抱いた。

H医局員は別に付き合っていた看護婦のアパートでウイスキーに青酸ソーダを混入し「渡辺医長殿、八州化学」の のし紙をつけて、別の看護婦に命じて小石川分院に届けたのだった。何も知らない看護婦は、お歳暮の品々が山積になっているところへ何気なく、毒入りウイスキーを置いたのだった。

H医局員は、懲役15年の刑が確定し7年半の刑期で仮出所した。その後、名前を変えて歯科医として開業したという。


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