日本大学闘争


−経緯−

昭和43年10月5日、日本大学(以下、日大)の学生で日大全共闘議長・秋田明大ら8人に公務執行妨害・公安条例違反の容疑で逮捕状がでた。秋田らは学生運動を組織し不法にデモ集会を実施したとして警視庁公安課が行方を捜索していたのだった。公安課の懸命な捜査の結果、翌年の昭和44年3月12日に、秋田は潜伏先の渋谷で逮捕された。

−日大闘争とは−
昭和43年1月、日大理工学部の教授が裏口入学の斡旋にからむ不正所得及び脱税事件が発覚した。5月になって東京国税局が日大を家宅捜索した。この結果、22億円の使途不明金が発覚。しかも、この使途不明金が職員に対する闇給与や組合対策費、政治家への献金などに使われたとする疑惑がでた。この調査中、日大・会計課の職員が自殺するなど大きな事件に発展していく。

学生たちは、抗議集会を各学部単位で実施していたが、5月27日に全学部の合同集会によって「日大全共闘」が結成され、秋田明大が議長に選出された。日大全共闘は、全理事長の退陣・経理の公開・集会の自由承認など5つのスローガンを掲げて運動を展開した。日大全共闘は、デモや集会を繰り返すが、大学側も体育系の学生や大学外からの応援を借りて日大全共闘排除に動き出す。6月11日、日大全共闘は、大学構内にバリケードを作り教室を不法占拠した。この時、大学側と衝突し200人以上の負傷者をだした。

9月30日に、大学側と日大全共闘との協議は12時間続けられ、大学側が全面的に非を認め全理事の退陣その他に合意した。
が、当時の佐藤総理が内閣懇談で「日大全共闘の行為は、集団暴力である」と発言。これを受けて、大学側は9月30日の合意内容を一転し、合意を反故した。政府の意を受けた大学側はその後、機動隊出動を要請しバリケードを撤去し教室を開放した。


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