東大闘争(安田講堂攻防戦)事件


−経緯−
昭和44年1月18日、東京大学(以下、東大)・加藤一郎大学総長代行は、東大・安田講堂、その他の教室を不法占拠している全学共闘会議(以下、全共闘)の学生達を排除するため、警察に出動要請を行った。この要請に警察は、8500人の機動隊を派遣し35時間の攻防戦を展開した。

教室や安田講堂に立て篭った全共闘の学生達は、バリケードを作り、投石や火炎瓶で機動隊に抵抗した。機動隊は、催涙ガスや放水で徐々に教室を開放していく。最後の砦となった安田講堂では、全共闘の主流派が多数篭城し、翌日の19日午後5時45分、全員逮捕がされるまで35時間の攻防戦を繰り広げた。

東大及び周辺地域では、報道関係のヘリコプターが旋回し大騒音、催涙ガスの充満、器物破損などで、さながら戦場における市街戦の模様を呈した。
この安田講堂の攻防戦で、全共闘の学生達371人を逮捕、重軽傷者は100余人にのぼった。

−東大闘争とは−
東大闘争のきっかけは、前年の昭和43年1月に、東大・医学部の学生が「インターン制度に代わる登録医制度」に反対したことから始まる。
医学部の学生達は、この制度改定に反対するため無期限ストを実施。さらに、東大・医局長を缶詰状態にして制度改定反対を申し入れた。
しかし東大・医学部は、この缶詰事件で17人の学生の処分を発表した。ところが、処分発表された1人は、缶詰事件に関与していないことがその後判明し、学生側と東大側で紛争の火種となる。この処分撤回を要求する学生側と東大側で平行線が続く。

6月には、反日共系の学生たちが、東大のシンボルである「安田講堂」を不法占拠した。これに対して、大河内東大総長は警察に出動要請。機動隊1200人が大学構内に入り、不法占拠を解放した。

7月5日には、学生達の集会で「全学共闘会議」が結成され、医学部の不当処分撤回と警察介入批判など7項目の要求で戦うことを明確にした。
11月、この一連の騒動に対して、大河内総長が辞任する。

以降、加藤一郎総長代行及び各学部長との話し合い(と言っても、教授らを監禁状態にした)は進展がなく、翌年の「安田講堂攻防戦」へと展開していった。

画像
安田講堂


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