三鷹事件


−経緯−

下山事件」から10日後の昭和24年7月15日午後9時23分頃(当時の夏時間。現在の午後8時23分)、中央線三鷹駅構内の電車引込み線から7両編成の無人電車が暴走し時速60キロを越す猛スピードでホームの車止めを突破した。この時、一番線ホームには午後9時18分に到着した同駅止まりの電車と、その後定刻から3分遅れで到着した立川行き下り電車の乗降客で溢れておりホームから改札口に向かって歩いていた人たちが電車に跳ね飛ばされ6人が下敷きになった。無人電車は更に駅前交番を破壊、道路を横切って商店街に突っ込んだ。この暴走で死者6人、負傷者20人をだす大惨事となった。

翌日、吉田内閣は「社会不安を起こしているのは一部の労組であり共産主義者の扇動によるもの」と声明した。16日、国家警察本部と東京地検は、首切り反対の首謀者が計画したとみて三鷹電車区の労働組合元執行委員長の飯田七三、三鷹電車区・山本久一が逮捕された。8月1日には同検査係の竹内景助(当時28歳・非共産党員)、伊藤正信、横谷武男ら7人を「電車往来危険、同転覆、同致死罪」の容疑で検挙した。更に8月25日と29日に2人を含めて合計11人が逮捕された(内、山本は8月16日にアリバイがあるとして釈放される)。このうち竹内を除く10人が共産党員であった。

−謎−

昭和25年8月11日、第一審判決公判は「共同謀議は空中楼閣」と談じ、《事件は竹内の単独と認定》し竹内を無期懲役、その他の9人は無罪を言い渡した。続く第二審では竹内に死刑判決。昭和30年6月22日最高裁は竹内の上告を棄却し竹内の死刑が確定した。無実を訴える竹内は再審請求中の昭和42年2月に東京拘置所で脳腫瘍のため死亡した。

事件前の竹内は、国鉄人員整理で解雇を宣告され次の就職活動を開始していた。知人の紹介で消防署の面接を受ける(合格していたが逮捕後に不採用通知)。竹内自身は解雇通知に納得は出来なかったものの現実を受け止めて威圧的態度の様子は見られなかった。事故発生時も風呂に出かけており、複数の人が目撃しているのにかかわらず警察では一切取り上げなかったという。また竹内の犯行とする物的証拠は皆無であった。無実の竹内が犠牲となったのか、事故の真相は何だったのか、今だに謎が残されたままである。

画像 画像
商店街に突っ込んだ無人電車 無罪判決で東京拘置所を出る9人の被告達


ホーム

inserted by FC2 system