島田事件


−経緯−

昭和29年3月10日、静岡県島田市の青果商・佐野さんの長女、久子ちゃん(当時6歳)が、同町の幼稚園から何者かによって連れ出された。幼稚園関係者、近所の人達が懸命に捜索するが行方が判らず、島田警察署に届けた。

13日になって、大井川沿いの雑木林で久子ちゃんが絞殺されているのが発見された。島田署は捜査本部を設置し犯人捜査を開始するが、犯行の手掛かりは杳として掴めなかった。

−犯人逮捕−
捜査本部は、島田市や近隣で前科や性癖の有る者を中心に捜査を開始した。そして5月24日、島田市で定職につかず町を徘徊していた赤堀政夫(当時25歳)を賽銭泥棒の容疑で別件逮捕し、その後久子ちゃん殺害の容疑で取り調べを始めた。赤堀は、いわゆる「放浪癖」があり、事件の一週間前の3月3日の朝、兄から定職を持つようにと言われ、職を探しに家を出たのだった。

一旦、東京に出て廃品回収の仕事を始めたが、すぐに飽きてしまい、横浜、熱海を経て静岡、愛知、岐阜を転々としていた。夜は、行き当たりの百姓小屋や寺小屋で寝泊りしていた。警察の取り調べて赤堀は、懸命にアリバイを実証しようとしたが2ヶ月前の記憶は定かではなかった。だが、赤堀は犯行を全面的に否認し3月10日を中心に記憶をたどりながら徐々に当時の行動を供述した。しかし、警察は赤堀のアリバイを無視した。

幼稚園から久子ちゃんを連れ出した犯人を目撃した人は「こざっぱりとした勤め人風で背広の上着を着ていた」と証言しているのだが、3月10日前後は風呂にも入らず小屋で寝泊りしていた赤堀とは風体が異なっていた。

だが警察は、赤堀はクロと断定し、その後冤罪事件となる「免田事件」、「財田川事件」同様、厳しい取り調べ(連日、一日15時間以上に渡り、アメとムチによる常套手段の取り調べ)によって、ついに赤堀は犯行を自供した。6月17日、赤堀は「殺人罪」で起訴された。

公判で赤堀は、アリバイを主張し「自白は拷問によって強要された」として終始無実を訴えるが、昭和33年5月一審の静岡地裁は「死刑判決」、昭和35年2月二審の東京高裁で「死刑判決」、同年12月に最高裁で上告棄却で「死刑」が確定した。

その後、支援団体による活動で「新たな証拠」として古畑東大教授の鑑定が太田東京医科歯科大学教授の新鑑定によって覆される。これによって再審請求が認められる。古畑鑑定では、犯行順序「暴行−石による胸部強打−絞殺」が太田新鑑定では「腹部の傷は死後のもので、赤堀の自供した凶器では傷の形が一致」しないとした。

平成元年1月31日、静岡地裁は赤堀に対して無罪判決を下した。赤堀は無罪獲得のため34年8ヶ月を要した。

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無罪を勝ち取り釈放される赤堀氏


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