日航ジャンボ機、墜落


−経緯−

昭和60年8月12日、午後6時12分羽田発大阪空港行き日航123便ボーイング747型ジャンボジェット機が満員の524人(乗員・乗客)を乗せて離陸。12分後、伊豆大島西方の上空7200メートルで機体後方から「ドーン」という爆発音がした。機長は「あれ、何か爆発したぞ」と副操縦士に声を掛けている。その直後、機長は「ドアが壊れた。緊急降下する」と管制塔に連絡し緊急降下した。午後6時54分「自機の位置が判らない。どこにいるのか教えて欲しい」と管制塔に連絡したのを最後に消息を絶った。

この間、ジャンボジェットの油圧が作動しなくなり方向舵や昇降舵が効かなくなっていた。さらに機体はダッチロール(横揺れ)とフゴイド(縦揺れ)状態で完全にコントロール不能であった。機長等はドア(R5)の破損と思っていたが、実は客室を外気圧から守るための隔壁板の破損であることが機長らには判らなかったと思われる。

この隔壁破損によって垂直尾翼の3分の2が無残にももぎ取られ、油圧パイプ切断もあいまってコントロール不能に陥った。唯一4基のジェットエンジンの推力コントロールのみで機体を立て直す機長、副操縦士であったが遂に午後6時57分頃、群馬県上野村の御巣鷹山(群馬県と長野県、山梨県の県境)の中腹に墜落炎上した。

全員死亡と思われたが翌日、奇跡的に4人の女性の生存が確認され救出された。しかし残念ながら、520人の死者をだす世界航空機史上最大の惨事となった。

また、生存した4人の女性の1人、川上慶子さん(当時12歳、左上写真)は「墜落直後、父親、妹はしばらく生きていた」と証言し、もっと早い段階で救助活動が実施されていたらと悔やむ遺族の声が高まった。

−原因−
事故機は以前、離陸の際「しりもち事故」を起こして米国ボーイング社が隔壁板の亀裂を補強材で修理する作業を行っていた。事故後ボーイング社はこの修理作業でリベットの打ちこみ方法、あるいはリベット数が完全では無かったことを認める声明を出した。

このため離陸・着陸を繰り返すことによって隔壁板のリベット部が疲労し亀裂破損を起こした。その結果、客室内の圧力が尾翼に向けて勢いよく流れて垂直尾翼の60%が破壊、脱落した。その影響で4系統ある油圧システムも全て破壊され操縦不能になったと事故調査委員会は結論付けた。

その後、東京地検は、日航、運輸省(当時)に対して、修理が完全であったか否かの点検は事実上不可能だったこと、ボーイング社に対しては治外法権として不起訴を決定した。520人もの尊い犠牲者を出しながら誰の責任なのか?断定できずに幕を落としてしまった。

地図
救助される川上さん 123便の航跡(概略図)
(地図素材は「白い地図工房」より)



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